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前衛書とは

第二次世界大戦後に新しい芸術観に基づいて起こった革命的な書道芸術運動によって開拓された新しい書道のありかた。

西洋の抽象絵画、東洋哲学の影響なども受け、文字を単なる記号として扱い,抽象美を表現しようとするものであり、漢字の字形そのものに内在する審美性から新しい造形を目指したり,文字としての字形を排除して絵画的な空間構成を追求する分野です。。

森田子竜,井上有一ら墨人会(1952年結成)の作家,勅使河原蒼風,篠田桃江らが代表的です

前衛書の歴史

「現代書の⽗」と称される書家、⽐⽥井天来(1872〜1939年 (明治5~昭和14))の書活動に源泉があるといわれている。

⽐⽥井天来は幼少期から独⾃に古碑法帖類を⼿本に書を学んでいたが、1897(明治30)年、⻑野から上京して⽇下部鳴鶴に師事した。しかし師鳴鶴の筆法の廻腕法では唐時代の美しい楷書の線が書けないため、2年余の古典研究の結果、新たな筆法の俯仰法 (古法) を発⾒した。

その後、書道の総合的研究機関、書学院を1927(昭和2)年に建設し、その書学院に所属した上田桑鳩らが自由な研究を行い発展していった。

戦争の終結(1945 (昭和 20)年)により、価値観の転換、欧米の芸術思潮の流入などが興り、さまざまな前衛芸術運動が活発に展開されていった。

1951(昭和26)年の第3回毎日書道展に、上田桑鳩が「愛」と題した作品を出品するが、当時は批判が多かった。

そのような紆余曲折があり、現代では国内外で発展している。

1872年〜1939年⽐⽥井天来が前衛書の元となる書活動
1897年⽐⽥井天来が⻑野から上京し、⽇下部鳴鶴に師事
1927年書道の総合的研究機関書学院を建設
1933年上田桑鳩をリーダーとして書の様々な可能性を追求するため書道芸術社が結成
1940年上田桑鳩が奎星会を結成
1945年⽐⽥井南谷が心線作品第一「電のバリエーション」を現代美術展に発表
1948年日展(日本美術展覧会)に「第5科 書」が開設
1951年日展に、上田桑鳩が「愛」と題した作品を出品
1953年日展で委嘱作品、大沢雅休の遺作「黒岳黒谿」が陳列を拒否
1955年上田桑鳩が日展脱退
1969年宇野雪村は上田桑鳩の跡を継ぎ「奎星会」第二代会長となる

出典